約束

海の見える坂道を、少女が自転車を走らせている。 ブレーキを何度も掛けないとスピードが出過ぎる程の急な坂道。 少女は、自らの行く手を阻む物は何一つ無いかのように猛スピードで下って行く。 赤いポストがある郵便局の角を右に曲がり、焼き立てのパンが美味しいと評判のパン屋の前を通り過ぎ、そして、出来たばかりのコンビニの横を抜けて行く。 坂道を下りきった所にある私鉄の小さな駅、そこに向かう人達を追い越しながら、毎日通い慣れた道を少女の黄色い自転車が駆け抜けて行く。
駅に向かうこの道を、次の信号で左に曲がると少女が通う学校への道に繋がっている。
  


「先生、おはようございまぁす」
「あっ!マコ、おはよう、もう直ぐ県大会の予選だね。 どう? 調子は?」 
「聞かないでよ・・・私まだ一年生だし、レギュラーになれるかどうかも分かんないのに」
「でも、いつも頑張ってるよな。 お前ならきっとレギュラーになれるよ」
「そう言ってくれるの先生だけ、ありがとうございます。 がんばりますっ!」   


真琴15歳、バスケと犬が大好きな高校1年生。
将来の夢はトリマーになること、そして、いつか可愛い自分のお店を持ちたいと思っている。 だから、卒業後はトリマーの専門学校に行くのが今の目標。
「真琴(まこと)」、皆は「マコ」と呼んでいる。

小高い山を切り開いた新興住宅地の一角に真琴の通う高校がある。
創立5年目のその学校は、真新しい家々が点在する中、まだ空き地のままいつ建設されるとも知れず雑草が生い茂っている宅地の向こう側に建っている。



「マコっ! 声が出てないぞっ! やる気があるのかっ!」コーチの厳しい声が飛ぶ。
上級生達が試合を想定して練習をしている間、真琴達一年生はコートの周りを囲むように立ち、大声を掛け合いながら外に転がり出たボールを拾うのが役目なのだ。

夏休みの間一日の休日も無かった夏季練習が終り、2学期を迎えて、やっと一年生にもコートに入って練習をすることが許されたのだが、中学の時からのバスケ部員であった他の一年生の中で、高校に入ってからバスケを始めた真琴にとって、他の一年生部員達に遅れを取らずに練習することだけで今は精一杯なのだ。

夕焼けが西の空を茜色に染める頃、真琴は疲れた身体で自転車のペダルを漕ぐ。



「花、今日もコーチに怒鳴られちゃった、やる気があるのかって言われた。
あるよ、マコ一生懸命やってる。 でも、コーチはいつも怒鳴るの・・・何でかな?」

花は、子犬の時川辺で彷徨っているところを、真琴に拾われた犬だ。
薄茶の毛に大きな耳をしている、花を初めて見た人は「大きな耳をしているねぇ、何て種類の犬?」と、必ず質問をする。 そのたび「いえ、雑種なんです」と答える。 子犬の時には前に垂れ下がっていた耳がだんだん立ち始めた時、「前に垂れてる方が可愛くて良いのに」と残念な思いがしたけれど、今は、そのピンと立った大きな耳が花の表情を幼く感じさせていると思っている。 

花は、どこか儚げで優しい瞳をした線の細い犬だ。 いつも遠くを見るような目で真琴を見ている。
真琴は、学校であった事、友達との事、両親には言えなくても花には全てを話す。 真琴と花の間には、言葉は無くても心が通じ合う絆のような何かが存在する。 真琴の発する一言一言に、頷くように花の瞳が光っている。 一人っ子の真琴にとって、花は妹のような存在なのだ。



花が彷徨っていた川辺が、二人の散歩の場所になった。
春にはみごとな桜並木が続くこの場所が、真琴のお気に入りだ。
花びらが舞い散る土手の道を、花と二人で歩く時が真琴の宝物のような時間。
夏になると、近くの大学の学生たちがボート競技の練習をしている。


毎朝、並んで歩く土のままの道。 柔らかな朝日の中をジョギングする人、自転車に乗り作業服姿で近くの工場に仕事に向かう人。 様々な人達とすれ違いながら真琴の新しい一日が始まる。


二人の傍を、一台の軽トラックが猛スピードで走り抜けて行った、その爆音に怯えた花が、突然真琴の手から離れリードを着けたまま土手を走りだした。 
「花! 駄目っ! 帰っておいでっ!」 真琴の言葉も耳に入らないのか、花は我を忘れたかのように走り去って行く。 

「花! 待って!」
「あぁ駄目だ・・・花が何処かに行ってしまう・・・」

とても神経質で気の小さい花。 真琴以外の人には決して心を許そうとしない花。 このまま帰って来ないかもしれない。
だんだん小さくなって行く花の後姿が草むらの中に消えて行った。
「花が行ってしまう、このままいなくなったらどうしよう・・・」
果たして、何処をどうやって探せばいいのか? 当ても無いまま真琴は土手の道を歩き続けた。


「この犬、君の?」
突然、真琴の肩越しに声がした。
振り返ると、右手にリードに繋がれたままの花を連れ、左の肩に大きなギターケースを掛けた見知らぬ男の人が立っていた。 小柄な真琴が見上げるほど背が高い。
穿き古したブルージーンズにグレーのセーター、いつ櫛を通したのかと思うほどのボサボサの長髪。 見詰められると思わず目を伏せてしまいそうになる強い意志を感じさせる大きな瞳。 、一文字に結んだ唇と、日焼けした細い顎が印象的だ。 

神妙な顔をして彼の傍に佇む花の姿を見て、真琴は思わず駆け寄った。
「花、駄目じゃないの、急に走り出したりして、迷子になったらどうするの」  
「あっ!私の犬です。 どうもありがとうございました。 なんて、お礼を言えばいいのか・・・あの・・・お名前は?」
「え?」
「あの・・・貴方の、お名前・・・」
「将・・・だけど・・・」
「ショウ・・・さん?」
「向こうでギターを弾いてたらこいつがやってきて、尻尾を振りながら俺に近付いて来たんだ。 見るとリードを付けたままだし、迷子かな?って思ってさ。 飼い主が見付からなかったら警察に届けないといけないのかな?って思ってた。 良かったよ、直ぐに見付かって。 もう逃がさないようにしっかりとリード、持ってないと駄目だよ」
「はい、気をつけます。 でも、めずらしいです花が自分からよその人に近付くなんて、
そんな事絶対にしない子だから・・・貴方の事が好きなのかな?」
「さぁね、分かんないけど、俺、仕事があるからもう行くよ」
「あの、私、真琴って言います。 明日の朝もこの時間にここにいます明日も来てくれますか?」
「えっ? 明日の朝? ・・・来れたら・・・来るよ」
「あの、私、ずぅっと待ってますから」
「・・・」
「じゃ、さよなら、 どうもありがとうございました」

ピョコリと頭を下げ、真琴は花のリードをしっかりと握り締め駆け出して行った。
「良かった、花はいなくならなかった」 花のいない生活なんて真琴には考えられないこと。 さ、急いで帰らなくては、学校に遅刻してしまう。



朝、学校に行く時はあんなに猛スピードで走れる自転車。 だけど、帰りは長い坂道を登らなくてはいけない。 部活で疲れた身体には、自転車のペダルを力一杯漕いでもつらい道のりだ。 漕いでも漕いでも中々前に進まない。 何台もの乗用車が真琴の脇を悠然と通り過ぎて行く。 「やっぱりバス通学にすれば良かったのかな?」。 時々そんな風に思うけど、「バスケのトレーニングの為」と言って真琴が選んだ自転車通学なのだ。

電柱に着けられた街灯が一定の間隔で続いている。 昨日通った時、切れかかっていたのかパチパチと点滅していた街灯があったけど、今日はちゃんと新品に取り替えられている。 「誰が取り替えてるんだろう?」そんな事を考えながら、真琴は一人家路を急ぐ。 


高校に入ったらバスケット・ボールをやりたいと言った時、「高校の運動部は練習が大変だよ。 勉強と両立出来るならやってもいい」と父から言われている。 クラブのせいで成績が下がったとは言えない。 
「もうすぐ、中間テストだ。 そろそろ、試験勉強も始めなきゃぁ、数学、どうしよう」


真琴が帰ると花は片時も傍を離れようとしない。 真琴の後をまとわり付くように歩く。
真琴が食事をする時も横にチョコンと座っている。 時々、真琴の膝に自分の顎を乗せて真琴の顔をじっと見上げている。 そんな時の花の瞳は、とても穏やかで幸せに満ちている。

「花は本当に真琴が好きなのね」と母が笑う。 昼間真琴がいない時は、一日中居間の隅っこに作られた自分のベッドの中で過ごしている。    
夜になり、ガレージの扉が開く音がすると大きな耳をピンと立て、玄関で真琴の帰りを待っている。 「花、只今。 今日は何して遊んだの?」帰ってきた真琴がいつも最初に花に話す言葉だ。 そんな時「今日もお利巧にしていたよ」とでも言いたげに、揃えた前足をズーッと前に伸ばして背伸びをする、そして、太い尻尾をちぎれんばかりに振りながら真琴の後に続く。 
父と母と祖母と真琴と花と、5人一緒のささやかな幸せだけど、この時間がいつまでも続けば良いのにと願っている。


おばあちゃん子の真琴は、今も祖母と一緒に寝ている、その事を友達に話すと「子供みたい」と笑われた。  祖母から怒られた記憶は何もない、いつも静かに縫い物をしている優しい祖母。 小学校の頃、新学期が始まると掃除に使う雑巾を家から持って行くことになったいた。 真琴はいつも祖母が作ってくれた色とりどりの糸で縫った雑巾を持って行っていた。 それが真琴の自慢だった。


真琴は最近色んな事を考える。 勉強の事、バスケの事、友達との事、そして、自分の将来の事。 
トリマーになる夢はあるけれど、両親からは大学に進学するように言われている。 だから、将来のことはまだちゃんと決められないでいる。 もっと勉強を頑張らなくてはいけないと分かっているけれど、バスケはずっと続けたいし、今やりたい事は他にも沢山ある。 勉強だけの高校生活なんて、つまらないと考えている。


「明日の朝、あの人と会えるかな? 来てくれるかな?」そんな思いを胸には深い眠りについた。



「花、行くよ!」 朝もやの中、花と一緒に川辺までの道を走る。 
コンビニの前でトラックの荷台の扉を開けて男の人が荷物をワゴンに載せている。 
「朝一番の商品が届いたんだ、早いね」 

「あの人来てくれるかな? でも、ちゃんと約束した訳じゃないし、来ないかも知れないな」  
昨日別れた場所で将を待っていると、突然花が尻尾を振って遠くを見ながら吠え始めた。
「花、どうしたの?」花の視線の先に目をやると、将が、ジーンズのポケットに両手を入れて、肩を左右に揺らすような癖のある歩き方でゆっくりとこちらに向かって歩いて来た。
「花! 来てくれたよっ!」 将の顔がはっきりと見えた時、花が「クーンクーン・・・」と鼻を鳴らし始めた。 

「おはよ」少しかすれた声で将が言った。
「おはようございます。 来てくれたんですね」
「あぁ来たよ、昨日のお前の顔が切羽詰ったみたいに真剣だったから、行かなきゃ悪いかなって思ってさ、朝早いの苦手だよ、夕べは遅くまで飲んでたし・・・。」
そう言えば、目が赤く充血している、 夕べはあんまり寝ていないのだろうか。
「ギターは?」 将の背中に目を移した。
「置いてきた」
「ギター弾くんですか?」
「弾くよ、だから持ってるんだろ? ライブハウスで唄ってる」
「ライブハウス?」真琴は少し頭を傾けて将を見た。
「知らないのか? 唄を聴かせる酒場みたいなとこ」
「わぁ~行きたいです」
「駄目だよ、子供は入れない」
「子供じゃないです」
「幾つ?」
「15」
「15? わっ、すっげっ」
「なんで、凄いんですか?」
「いや・・・別に、只、俺と6才も違うんだって思っただけさ」

「ショウさんの唄聴きたいです」
「いつかね」
「いつかって?」
「だから、いつかだよ」
二人の取り留めもない会話を聞いているのか、花がお坐りをして二人の顔を交互に見ている。


真琴は将といつまでもこうしていたいと思ったけれど、もうそろそろ帰らなくては。
土手を歩く人の数がだんだん増えてきた。
「毎日会えるといいですね」真琴の口から思わずそんな言葉が飛び出した。
「冗談じゃないよ、俺は元々こんなに早起きじゃない毎日なんて無理だよ」
将が困った顔で笑っている。
「でも、ショウさんに会えると花が喜ぶから・・・」誰にも聴こえないぐらいの小さな声。
「えっ? お前がじゃないのか?」悪戯っ子のような目をして見詰める将の顔が眩しい。
将に見詰めらて顔を上げられない真琴は、じっと下を向いたまま花の背中に目をやっている。

「分かったよ。 じゃぁ、今度の日曜、朝10:00ここにおいで、それでいいだろ?」
「あの・・・花も一緒に良いですか?」真琴はちょと上目使いに見上げた。
「あぁ良いよ連れておいで、それから、俺のことはショウでいいよ、皆にそう呼ばれてる、さん付けは、なんだか落ち着かない」
「ショウ・・・」 真琴が小さな声で呟いた。
「今度の日曜10:00に、じゃぁ、さよなら」
「あぁ」将が右手を肩まであげて宣誓をするような仕草をした。
少し走ってから後ろを振り返ると、まだ先ほどの場所に立ってこちらを見ていた。
ピョコンとお辞儀をすると、さっきと同じ宣誓をするような仕草で右手を挙げた。 そしてくるりと向きを変えると、ジーンズのポケットに両手を突っ込んで歩き出した。


「今度の日曜の10:00・・・」、忘れないように、真琴は何度も何度も呪文のように繰り返していた。


昼休み、クラスメートの圭子が声を掛けてきた。
「マコ、体育祭の応援合戦、私達のクラスはバトントワラーをしようと思うの、マコ中学の時やってたって言ってたよね? 教えてくれない?」
「良いよ、じゃ、いつからやる?」
「うん。中間テストが終わったら直ぐに始めたいの、メンバーはそれまでに決める。出来れば10人ぐらい集めたいと思ってる。 それから今度の日曜日、部活休みでしょ?一緒に買い物に行かない?」。
「日曜日?・・・ごめん、予定がある。」
「えっ? 何処行くの?」
「うん・・・」
「ん? 秘密なの?」
「・・・」真琴が言葉も無く、只、頷いた。
「デェトォー?」圭子がマコの顔を覗き込むようにして顔を近づけてきた。
「違うよっ! そんなんじゃ・・・」校庭に植えられた欅の枝を風が揺らしている。
火照った真琴の頬に、小さくそよ風が吹き抜けた。

…..デートなんかじゃないよ、ちょっと会うだけだよ、花も一緒だし・・・

圭子はクラスのリーダー的存在だ、成績はいつもトップ。 真琴はどうしても彼女を越えられないでいる。 けれど、なぜか気の合う二人は、高校の1学期が始まって直ぐに仲良くなった。 お互いの家に泊まりに行ったり、二人で買い物に出掛けたり、クラブは違うけれど、バスケの練習がない日はいつも一緒だ。 けれど、将のことだけはどうしても話せない。


「あっ! あそこにお店があるよ、 ねぇ、休憩しない?」
「うん、そうだな」
いつもの川辺の道を、花を真中にして将と真琴が歩いている。
将に連れられ、花はご機嫌が良いみたいだ。 
「10:00に」って言われた約束の時間だけれど、真琴は30分も前に着いていた。 あっと言う間に準備が出来て、家にじっとしていられず出て来てしまったのだ。


「オレンジジュースが飲みたいな。 えぇっと・・・。」
「あっ、いいよ、一緒に払うから」
「えっ? でも・・・」
「いいよ」
「どうもありがとう」
「どういたしまして、じゃぁ俺はラムネだ」
店先にある丸いテーブルに並んで腰しかけた。 花はやっぱり二人の間に座っている。
「これって、開ける時プッて噴出すだろ? 子供の時、それにドキドキしてさ」そう言って、将は慣れた手付きでラムネの栓を開けた。

「お前、15って、中三?」
「うぅん、高一」
「高一は16だろ?」
「私は3月31日生まれなの、だから、まだまだずぅっと先。 小さい時おかあさんがよく言ってた、2日後で生れてたら次の学年だったのに、真琴は可哀想、身体が小さいし体力だって他の子より弱いしって、私小さい頃喘息だったの、今はもう大丈夫だけど.。 今でもクラスで一番小さいの、バスケやってるけどそれってハンディなんだよねぇ。」
「じゃ牛乳飲めばいいよ、あれは背が伸びる、俺、子供の頃牛乳ばっか飲んでたよ」
「ふぅーん・・・。だからショウは大きいの?」
「そうかも知れないな。」
将が、ラムネを一口飲んで少し目を細めるようにして、今歩いて来た道を見詰めている。


この川辺の道は、毎朝、花と一緒に歩く散歩道。

真琴が3歳の時、大きな台風が来てこの川が氾濫しそうになったことがある。 幸い氾濫は免れたが濁流が水かさの増した川を勢いよく流れていた。 その頃真琴の家には5歳年上の従兄の俊二が一緒に暮らしていた。 そして、俊二とその友達そして真琴の3人で、水かさの増した川を見に遊びに出かけてしまったのだ。  真琴の記憶の中には、水かさの増した濁流と途中で出会った一人のおじさんの事以外、後は何も覚えていない。
二人の姿がない事に気付いた母は、気が狂わんばかりに探したと言う。 近所の人達と一緒に近隣を探したが三人を見つける事は出来なかった。

その日の夕方、川の下流にある町の方から三人が帰って来たそうだ。 川の土手沿いに歩いて隣町まで行っていたらしい。  真琴は、そのことも覚えていない。
大きくなってから「あの時は3人とも川に流しちゃったと思った、かあさん、もうどうして良いか分からなかったわ….」と、母から聞かされた。

その話を将は黙って聞いていた。

次の日、部活が終わりいつもの坂道の信号で止まっていたら、横断歩道の向こう側に将が立っていた。  信号が変わり渡り始めたら将が近づいてきて「これ、来て」と言って一枚のチラシを渡し、そのまま去っていった。

「真木 将 ラストライブ」。 9月15日19:30から  岬町のライブハウス「マギーハウス」   

ラストライブ?  辞めるの?     





そのライブハウスは路地を入って直ぐの所にあった。  扉一枚程の狭くて急な階段を降りると木の扉があった。 中に入るとカウンターにいる男の人が何人かのお客さんと話していた。  正面に小さなステージ、そこに背の高い椅子が一つ、フロアーには丸いテーブルが幾つか並んでいる。 すると奥にあるカウンターにいた男の人がこちらを見た。 
 「真琴ちゃんだね?将から聞いているよ、来てくれたんだね。さぁそこに座って」と言ってステージの前の席を指差した。 
 「何か飲む?」 怖い人かと思ったけど、笑顔が優しかった。 
 「あの…オレンジジュースを…」   「OK」。  

「あの…これ」 
 「良いんだよ、わざわざ来てくれたから俺のおごり」  
 「…すみません、 頂きます」。


ライブハウスの中は薄暗い。   ライブハウスなんて、来たの初めてだ。   壁にはギターやトランペットを演奏している男の人や、歌っている女の人のポスターが貼ってあったけど、知らない人ばかりだった。

暫くするとギターを持った将がステージに現れた。  長い髪がふわふわと巻いていて、前髪が目が隠れるぐらい長い。   白いTシャツに穿き古したジーンズ、そしてスニーカー。   大きな拍手に驚いて振り向くと、いつの間にか客席がお客さんで埋まっていた。

椅子に座った彼は、何も言わずにギターを弾き始めた。   なんて繊細で優しい音色なんだろう。 一音一音に心を篭めて弾いているのが伝わってくる。  そして彼の歌声は、時に優しく、時に力強く、取り取りの曲によって声が違って聴こえて来る。

間奏に入るとそっと眼を閉じ、小さく頭でリズムを刻む。 口元が微笑んでいるかのようなその顔は、まるで至福の時に浸っているかのよう。

それは、真琴が見たこともないもう一人の将。 

小さなスポットライトを浴びている彼を見ていると、不思議な感覚に包まれた。  昨日一緒に川辺の道を歩いた彼と、今こうしてステージに立ち切ない恋の唄を歌っている彼が、同じ人とは思えない。


大きな拍手に包まれてライブは終わった。  真琴は成す術も無く椅子に座ったまま立てないでいた。

「どうしよう、このまま帰った方が良いのかしら?  それともショウに挨拶しないといけないのかしら?」 ぼんやりと座っていると将が傍に来てくれた。 

「ありがとう、来てくれないかもしれないって思ってた、嬉しいよ」 
「こちらこそありがとう、楽しかった」
「そう…それは良かった、遅くなったから送るよ、ここで待ってて」 



自転車を押しながら、将と並んで歩く。 
「家の人に何て言って来たの?」 
「友達の家で一緒に勉強するって言って来た」  
「そんな嘘ついて後で叱られない?」  
「大丈夫、いつも一緒に勉強してるから、それにおかあさんも良く知ってる子」
「嘘はだめだよ、でも仕方がないか、ライブハウスに行くとは言えないよな」と言って困ったような顔をして笑った。

「あの マコトってどう書くの?」
「真実の真とお琴の琴、おばあちゃんが付けてくれたの」
「俺は真木は真実の真と木曜日の木」 
「将って将軍の将なんだね?強そう」   
「真木の真と真琴の真は同じ字だ、俺今気付いた」  
「ほんとうだ、同じ、ショウには兄妹いるの?」  
「俺は一人っ子、天涯孤独」  
「私も一人っ子だよ何だか私達共通点が多いね」  
「そうだな」  

話が途切れると、二人肩を並べて歩いて行く。  会ったばかりなのに、会って3回しか話してないのに、それなのに、気まずくなくてとても暖かい気持ちだ。


「ありがとう、もう家に着いちゃった、 今日はありがとうございました」  
「あのさ、 明日夕方5時にこの前の信号の所で待ってる、来て」  
「あの、部活があるし」  
「俺、待ってるから・・・ずっと待ってるから」と悪戯っ子のような照れた笑顔で言った。 そして、そのまま返事も聞かずに坂道を帰って行った。    




随分迷ったけど、約束の場所に行かないと、もうこれっきり将に会えなくなる気がして部活を休んだ。
将はちゃんと待っていてくれた。  真琴の姿を見つけると、少し笑って右手をちょと上げて合図をしてくれた。
学校帰り、男の人と二人で歩くのは初めて、何だか落ち着かない。  肩を並べて黙って歩いた。  昨夜と同じだ。  

「今日はギターは持ってないの?」  
「今日は置いて来た」。   

暫くすると児童公園の前を歩いていた。
「あのさ、おなか空かない? 何か買ってくるよ」 
 「良いよ、大丈夫」  
「じゃあそこに座ろうっか」と言って公園のベンチを指差した。  
「やっぱり何か買ってくる、ここで待ってて」。

この児童公園は真琴が小さい頃祖母と良く来た場所、ブランコが怖くって乗れなかった、ジャングルジムも怖かった。  だから、いつも砂場でばかり遊んでいた。


「お前おばあちゃんと暮らしてるの?」  
「うん、お父さんとお母さんとおばあちゃんと花と5人で、ショウは?」  
「今は一人、俺さ小5の時に親が離婚して父方のばあちゃんと暮らすことになった。 高一までばあちゃんと二人だったけど、その年にばあちゃんが亡くなってさ、それから一人、天涯孤独ってやつ」  
「寂しくないの?」  
「別に、もう慣れたよ、良くしてくれる人もいるしね」
「あのライブハウスの人?」  
「そう、凄い世話になってる、俺の恩人」  
「歌、好きなの?」
「そうだな、一生唄っていたいと思ってる」  
「私ショウの歌好きだよ、声も好き、ギターもとっても上手だと思う」  
「ありがと、そんな風に言ってもらうと嬉しいよ。 お前バスケやってるって言ってたけど、ちょっと意外な気がしたよ。 体育会系じゃないよな」
「うん、向いてないと思ってる。 友達に誘われて入ったけど、何かね、ちょっと」  「そっか、でも、諦めずにやってみなよ、きっと上手くなれる。 俺だって、もっとギター上手くなりたいと思ってるよ、だから毎日練習してる。 この前なんかさ、布団に入ってからもギターの練習してたんだ、そしたらそのまま寝ちゃってるの、ギター抱えたまま」   
「えぇっ、それ凄いね」   
「だろう、ホントバカだよな俺って。 曲も自分で全部作ってる、好きな曲をカバーすることもあるけど、ほとんど自作」  
「へぇ、凄いね、良いなショウは、そうやって自分の好きなこと見つけられて、それをやりつづけられて、私は駄目だ」  
「そんなことないよ、お前だってバスケ頑張れば良い、苦手でも努力は必要だ、逃げちゃ駄目だよ」  
「そうだね、ショウに言われると勇気が出た、ありがとう」
「そうだよ、途中で諦めるな、やれるとこまでやってみなきゃね、何事もさ」 
「えぇぇ?  何だかおじさんみたい」  
「そっかぁ? 俺はそうやってこれまで生きてきた」  
「そうなの?」
「そう」 そう言って、将は自分の手を見ていた。  
「俺、子供の頃から色々とあってさ、で、中学の頃からバイトしてたんだ。  港で荷役の仕事、今もやってる」  
「荷役って?」  
「港に着いた船の荷物を降ろしたり、積んだりする仕事だよ」  
「ふぅん大変そう」  
「最初はきつかったけど、今はベテランさ」そう言って両手をバンザイするように上に伸ばして深呼吸をした。  


そのままどれ位時間が経ったのだろう。 二人肩を並べてぼんやりと前を見ていた。

「あのさ、俺東京に行く事にした。 来ないかって誘われてる。 プロの歌手になる、きっと実現させる」  
「東京に行くの?  いつ?」  
「明日、.発つ」  
「明日?」  
「うん」  
「急だね、もう帰ってこないの?」  
「一人前になるまでは帰ってこない」
「そうなんだ、せっかく友達になれたのに、寂しくなるね」  
「寂しい思いさせるからお前には言わないで行こうと思ったけど、やっぱりちゃんと伝えたかった、ゴメンな」
「うぅん、言ってくれて嬉しかったよ。 私と会うずっと前から決めてたんだものね、だから仕方がないよね、プロの歌手になって有名になって、応援するよ」  
「うん、ありがとう、やってみるよ、やれるとこまで頑張ってみる。 俺、行く前にお前に会えてよかったと思ってる、ありがとう、このことを伝えたかったんだ」


「帰ろっか」そう言って、将がベンチから立ち上がった、そして昨夜と同じように自転車を押しながら二人肩を並べて坂道を登って行った。


「ありがとう、送ってくれて」  
「じゃな、部活頑張れよ」  差し出した手はとても大きくて柔らかだった。  


9月17日、将が東京に発つ日。  軽トラックに荷物を積んで一人で行くと言っていた。 
昨日から降っていた雨も明け方には止んだみたい。

見送りには行かないことにした。  何を言えば良いのか分らないし、泣いちゃいそうだし。


将とは会えなくなったけど、もしいつかまた会えたら、自信を持って話せる自分になっていたいと、真琴は心の中で将と約束をした。